(株)坂出葬儀社の創業者、河﨑富美子(かわさき・ふみこ)は、昭和4年、高松市生まれ。父親の本家は曽祖父の代から瓦町で花屋を営み、大正時代に父が新たに栗林町で花屋を始めました。
富美子は子供の頃から父の店を手伝い、花市場に自転車で花を仕入れに行っては、店で売り、花を配達する毎日を送りました。時代は太平洋戦争前。ろくに学校にも行けず、仕事はきつい。けれど、富美子は花が何より大好きでした。日々花に携わり、ずっとこの仕事を続けたいと感じていました。

やがて富美子は坂出市の河﨑家に嫁ぎます。結婚当初、夫婦は親戚の土建業を手伝い、夫は現場監督をしていました。その後、夫の実家に戻り、親を世話しながら3人の子供を育て、農業を20 年ほど続けました。 夫・河﨑季芳(すえよし)は大正15 年生まれ。子供たちへは「後からは何とでもいえる」と言い訳を許さない、厳格な父親でした。頑固で堅物な一面もありましたが、性格はまっすぐで人情に厚く、明るい人でした。

昭和47 年、義父の勧めで、坂出市富士見町1 丁目の鉄道脇に、二人で小さな花屋「かわさき生花店」を開業しました。 念願の花屋を始めたものの、最初はなかなかお客さんが見えません。富美子は店のそばのバス停でバスを待つ人たちに、「寒いけん(暑いけん)、まあ入って休んでいきまい」と声を掛けては、店に招き入れ、飲み物を出したり、売り物の花を少しずつ「持って帰って仏さんに上げまい」と配ったりしました。少しでも多くの人に覚えてもらおうと思って必死でした。
季芳は建築しか経験がないので、富美子がいなければ花の名前もわかりません。ある日ひとりで市場へ出かけ、間違ってマーガレットをトラック一杯仕入れてきてしまい、近所の人にタダで配ったというエピソードもあります。
しかし季芳は、工事のためのスコップやツルハシを筆に持ち替え、門標や花輪に書く筆文字を練習し、納得するまで何度も書き直すなど努力を重ね、懸命に富美子を支えました。
おもに、葬儀用の生花の需要が多かったのですが、葬儀の仕事はいつ注文の電話が入るかわかりません。転送電話ができるまでは毎日深夜まで店で電話番。365 日、24 時間態勢。夫婦二人で休みなしに働きました。

かわさき生花店の有限会社化から3 年、季芳の発案で葬儀事業に乗り出すことにしました。当時は坂出市内に葬祭専用のホールはなく、市が祭壇や霊柩車など一式を持ち、各々の自宅や寺、自治会館などで葬式をしていたのです。
昭和61 年に(有)坂出葬儀社を設立したものの、規制が厳しく、事業を始めることが許されるまで10年以上もかかり、ようやく平成9年、坂出市で第一号となる葬儀専用の式場「坂出葬祭会館」(坂出市久米町)が完成したのです。その後16年には新館、21年には宇多津町に葬祭法要会館なごみを開設し、様々な規模のお葬式のニーズにお応えできるようになりました。

そして今、葬儀の形がさらに大きく変化してきました。葬儀の形態としては、大掛かりな葬式は少なくなり、家族葬が中心になると思われます。セレモニーの簡素化や、葬儀そのものを必要ないと考える層も増えています。 平成30 年春、坂出市久米町の坂出葬祭会館隣に、ご家族だけの小さなお葬式にも対応できる「家族葬ホールなごみ」が新規オープンいたしました。

葬儀への考え方の変化とともに、葬儀社の役割も変わりつつあります。SAKASOUは今、人生の終末期や死後に発生し得る様々な課題への備えをお手伝いする、「ライフエンディングサポート」事業の充実を目指しています。
葬儀という儀式だけに縛られるのではなく、人生の終わりに向けて様々な場面で安心と感動を提供する企業でありたい。地域の皆様のために私たちができることは何でもしていこう、というのが、今の弊社が目指すところです。

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